昭和51年1月17日 朝の御理解

 御理解第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがとう受けて帰れば、みあげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」



 大体、この意味は誰でも分かりますよね。神様の言うとおりにすれば、おかげを受られるだけではなくて、それこそ御神徳が受られる。それは「船にも車にも積めぬほどしの御神徳が受けられる」と。なるほど、そうだろうと思います。神様の言うことを本当に、お道の信心というか、金光様の御信心は、守ろうと一心発起すれば、誰でも守られるみ教えです。決して「そのげなことはできん」ということは絶対にないですね。金光教のまぁこれは、ある意味での独壇場でしょうね。厳しい、とにかく生身の持っておる人間ではとても出来ないというようなものはない。それをやはり身を持って頂こう、行じようということになれば「神徳が受けられる」と教えられる。という意味が分かるけれどもなかなか、「神の言うとおりにする者は少ない」と。だから、せめて私は、合楽では、少ないほうの具類の氏子にお取り立てを頂いて、合楽の方達は、皆お徳を受けて、それこそ貧争病のない世界に住み、いよいよ真善美輝くような、おかげの世界に住んでおられるというような、おかげをひとつ頂いてもらいたい。そういう願いをやはり持たなければいけない。ただ、ここにひとつの条件というか「心の内を改めることが第一なり」と。これは、やっぱり難しいですね。また「神に一心とは迷いのないことぞ。」と。これが、また難しい。ね。

 昨夜、御祈念が終わりました時、宮崎の方から電話がかかってきた。「家屋敷を買いたい」というお届けがあっておって、お許しを頂いておった。お金が千四百万が千五百万円か。御取次を受けたら、「おかげを受けたがよかろう」ということであった。お話を段々進めさせて頂いたら、もう、本当これがお繰り合わせとだろうと思うように、スム-ズにまとまる一歩手前のところまでおかげを頂いた。ところが主人が申しますのに、「五百万円しかお金がないのに、後は借りらんならんとに、月々十万つづも払っていかなならんが大丈夫か」と主人が言い出した。ね。そしたら、夫婦でお参りして見えますが、奥さんがだいたい熱心でここに参って見えるんです。「主人からそう言われたら心細くなってきた。」と言うんですね、「それで、もういっぺん、お伺いしてみよう」というとであった。私は、電話を頂き頂き、8の字を頂いた。数字の「8」です。だから私は申しましたけれどもね。「神様にお許しを頂いたことだからね、あの話がスム-ズにいっておるなら、これからの金策のこともスム-ズにいくよて。話の相談だけはスム-ズにおかげをやったけれども、後の金銭のことは、私は知らんという神様では絶対にないよて。迷わずに一心と定めていきなさい。ちいっときつかこともあるけど、8の字を頂くから、これを漢字になおすと、いよいよ末広であり、こうやって数字で頂くと〇を二つこうしてから、ちっと腹のよじれることもあろうけれどもね、心配ごともあるけれどもね、そこを神様におすがりして、一生一代の家を買うとか家を立てるというようなことは、そうだびたびあるものじゃない。だから足りないところは万事お繰り合わせお願いするから」と、まぁ申したことでしたけれども。この辺のところが難しいんです「お許しを頂いておる。『けれども』」が付く訳です。迷う訳です。

 今、甘木の教会に参っておるそうですけれども、田主丸からお魚屋さんが参ってきよりました。昔、椛目の時代。まぁ行商、店が持ちたい。お願いしておかげで本当に魚屋に適当な場が見つかった。ところが、やはり店は見つかったけれども、後の資本金なんかのことで、やはり不安になってきた。その時に頂いた御理解がやっぱりそうでした。神様がお許しを下さって、お繰り合わせを頂いて家が見つかった。後の仕入れのことやら、神様がちゃんとお繰り合わせを下さる。ところはまた、今度はせっかく店はあったけれども、「お願いせんならん、また」と言う訳です。だから、「信心を落としさえしなければ、家が見つかった、資本は出来た、後のお得意さんのことも、ちゃんと神様が準備してくださるよ」と、まぁその通りにおかげを頂きましたですね。だから、私は、あのこういうところが、やはり迷が、迷いということ。「神の一言は、本当は千両の金にも変えがたい。」。だから、そこのところをです、「神様がああ教えて頂いたから、親先生がこう言うて頂いたから」とその一念で神様におすがりしていくということが、千両の金にも変えられないほどのお徳が受けられるのです。「先生からああ言うて頂いてけれども、金はどうじゃろうか、後のお客さんのほうはどんなふうじゃろうか」とね。この辺がやはり難しいでしょ。また、「改まることが第一なり」と仰しゃるのだから、改まるということがなかなか難しいですね。

 それこそ先日から頂きますように、自分のもう身に家にしみ込んでおる、いわば、めぐりですから、これは仕方がないと思いますけれども、それではやはり、すっきりとしたおかげになってこない。改まりというなら、そういう改まりがやはり難しい。それこそ、やはり身にカンナをかけるような思いで改まらなければいけない。

 昨日もある方が親子で参って、高校に行きよります、娘さんが家出したと。まぁそこから、とにかく、おかげを頂いて帰ってくるようになりましたけれども、その間、私がここに参ってきてから一番に、そのことを申しましたことでした。娘よりもお母さんの方に申しました。どうだったですか。娘が何日間、その、まあ、家出をしたと。その間の、いわばあなたの、いわば苦しみとか心配ということは、もう大変なことだっただろう。それこそ、親の生身にカンナを掛けさせるような思いをさせてだろう。そこでね、その親の生身に、それこそカンナをかけるような思いをさせたのだから、そういう時に改まり、そういう時に本当の信心に目覚めさせて頂くとです、帰って来たことだけが有り難かっただけではなくて、この度、本当に普通、改めれないような所が改められ、生身にカンナをかけるのだから、あなた、改まった所が出てくるわけです。でなかったら、ただ、おかげを頂いただけじゃいけんよ」と言うてお届けさせて頂いたことですけれどもね。なかなか難しいけれども、どうでもおかげを頂かなきゃならん、心配でたまらん、苦しゅうてたまらん。そういう時にです、私は改まるということはねなされるもんだと思うですね。だから、改まるということは難しい。また(?)ということも難しい。この御理解34節は、大体こうして聞かせて頂いただけで、「成程、そうだろう」とこう思う。そこでです、なら見やすいところを頂きますと、どういうことになるかというと、「神の言うことは道に落としてしまい」というところ。いうなら「神の言うこと」というところに、ちょっとやっぱり難しいような、難しいというか、なんかおぼろげになってくるような感じがいたします。そこでね、「親先生が言うことは、道に落としてしまい」というふうになると、少し身近かに感じることが出来ます。そこでです、なら、今これは、合楽の親先生がね、「天地に通じてござるなぁと。金光大神といつも通うてござるなぁ。」と、皆さんが、まず信じてくださるならね、信じてくださるならば、私は、親先生が言うことを聞きやすいと思うんです。

 昨夜、私はこういうお夢を頂いた。昨夜ここを下がらして頂いたら、なんとかという、あのテレビであっておりますもんね、あれは、なんとか百恵という歌手がおるでしょう。あの人の主演してとる映画なんですよ。それが私の聡子が、大ファンなんですよ、百恵ちゃん、百恵ちゃんが大ファンなんです。百恵ちゃんがあると必ず見らないけん。私も途中から見ましたら、その百恵ちゃんが、その白血病になってるところなんです。そして、親達が本当のことを言うて、もういよいよ死が、万ん一何か月に迫っておるというところを頂いておりました。ところが、昨夜、百恵ちゃんが私のところに来ましてからね、(感動)「身も心も捧げますから、お願いします」と言うんです。私は、あの、もう枕元に小さい箱枕を私、置いております、黄色いの、それにカッチとおいさみがついて目が覚めました。神様にお届けさせて頂きましたらね、「もう、身も心も捧げるなら、それは白血病、助からんちいう者でも、絶対助かる」ちいう神様のお知らせを頂いたです。「身も心も捧げますから」と。なぜ私に皆さんが、身も心も捧げて下さるならば、そういうおかげは受けられるけど、私が天地に通じておるから、金光大神に通うておるからなのです。私が誰々さんに身も心も任せた。いうなら身も心も捧げた。誰彼じゃ、だからいかんということが分かります。いわゆる、皆さんが私に、身も心も捧げてくださらなならん。そこで、今日の御理解で言うと「神の言うことは道に落としてしまい」ではなく、漠然といたしますから、「親先生の言うことは道に落としてしまい」、親先生がああ言われたからという頂き方。そこに段々、迷わんでもすむ、また本気で改まるということになる。「あんた、いっちょそこを改まらなんな」とね。「身の心も任せる」と。私、それから、寝ながら思ったんですけれども、成程、甘木の教会では、病人さん達が、もう医者が見放したというのが助かる。助かったら、お道の教師にしろ、ということが条件のように御取次をされたという、まぁ私は本当のことは知りませんけれども、そういうふうに聞いております。いつでしたか、まだ、上滝さんがおかげを頂いておる時分に、高島さんが久留米で会われた。おかげを頂いてから、その時分に当時の椛目にえらい疎遠になっておった。たまたま久留米でおうたから、光橋先生らによって、そして「もう、本当あんた、親先生がそげん心配しよるばい。あんた参ってこなち」ね。「もう本当に、もしあんたが甘木の教会におかげを頂いておるならば、あんたはいつの昔にお道の教師にされとるばい。」というたら、「お道の教師にならんといかんとならば、私は椛目には参いらんとじゃった。」ち言うたというて、そしたら、高島さんがえらい腹かいてですね、言われたことがあるんです。だからね、お道の教師がそんなに悪いことやら、困ったことやらないのだけれどもね、やはり「身も心も捧げなければならん」というところが、やはり難しいわけです。だから、無い命、医者から見放されたというものなら、もし、助けて頂くならば、お道の教師にでも、いわばならせて頂きます。さぁそれから、どんどんおかげ頂く。みんな。だから、そういうその先生方が多い、いわゆる無い命を助けて頂いたんだから、一生懸命打ち込むことができる。だから、各教会、御比例も立つということなるわけです。そこで、今の百恵ちゃんのその、お夢を頂いてから思いました。「ほほ、成程、これからも、いよいよ助からんちいう人は、お道の教師という、あんたがお道の教師になるち決心がついたら、私が改めて御取次させてもらおう、というふうにしたらよかろうな」というようなことを思いました。だからね、「身も心も捧げる」ということは、そういうおかげが頂けることです。だから、「神の言うとおりにする」ということはです、身も心も捧げたのですからね、例えていうと、自分の動きそのものですらも、「神様のお許しを頂かなきゃ、動かれん」ということになるのです。だから、結局、人間心を使うたら、徹底した、いうならばおかげは受られんということになります。

 昨日、壱岐の末永先生のところのご信者さんで、結婚されて、こちらのほうへ新婚旅行に出て見えて、ここへお礼に出て見えた。それで、まだ宿をとってないち言われたから「こちらにお泊まりになったら良いですよ」というて、その人から昨夜、泊まられた。それで、末永先生が、皆さんがご承知のように大変、いうき届く人ですから、人間心が非常におおせいなんです。それで「二人を連れて、こうらさんの方にでもお参りでもさせて頂きたいから」とこういう訳です。「私は、ほんなかこつ、ばかじゃなかろうか」ち言うおうごとあったけれどもね、「ああそうの」ちいうて私が、返事がちょっと渋った。渋ったと受けたんでしょう。行ってないから。そりゃ、ご主人になる方が運転手ができる。それこそ、「自動車を動かして二人で周って来なさい。」ち、そりゃ新婚さんところの間に入りこむなら、それこそ(?)ごたる。「そりゃあ、あんたが行かん方がよかなかの」ち言うたほうが、良かったけれども、「まぁ自分も一緒にが行く」と言うたから、御取次させて頂いて、まぁ「はい、はい」とこう言うたけれども、その「はい、はい」がやはり私が重かった。そういうことはいつもあるです。みなさんの上に。もう、いうならば私に、身も心も捧げておる人達です。修行生という方達は。自分で勝手に、しかも行かんでもよいところに、行こうと動こうとする。そういうところがです、窮屈なら窮屈のごたるに思うけれども、なら窮屈の中に、私共は、ここ畳半畳のこの窮屈な中に、それこそ「世界は和賀心にあり」というような広い心が開けてくるですからね。身も心も捧げておるんですから、それこそ、神様が手を上げろと仰しゃれば、手を上げる。足を上げろと言われれば足を上げさせて頂く、いうならば、甘木の親先生の仰しゃる、操り人形にならせてもらう、神様が人形使い。そういう生き方がです、神の言うことを聞くことなんです。根本的に。だから、いうならば神のたった一言がです「身も心も捧げました」という、そのことが「千両の金にも変えられないお徳が受ける」ということが分かるでしょう。私共はあまりに神の言うことを、右左にしておるように思う。それは、第一に改まりができない、「一心とは迷いのないことぞ」と仰しゃる、その迷いが起きてくる。

 昨日、いわださんがお参りになってから、元旦祭にお参りさせて頂いた時に親先生が「大払信行の徹底」ということを言われたので、まだ、大払も覚えていないけれども、家内、子供それぞれに祝詞本も買わせて頂いて、それを実行させて頂いておる。ところが、なかなかそろうてよう上げられない。だから、もう嫌気がさすというか、有り難くなるとか、すばらしくなるというところまでは行っていない。そしたら、今朝方から、先生お夢を頂きまして、おおてきおと鈴を頂きました、横笛とあの鈴です。それこそ大払を上げさせて頂く、いうならその金の例えば鈴を打ち振るうような音色とでも申しましょうか、それこそあの、おおてきのすばらしい、音色というものが出てくる。それが一つの調和になって、信行ができるような、そういう調子がでるまで、やはり辛抱しなけらばいけないとこういうこと。皆さんも実行しておられるけれども、どうも調子があわない、というような方もたくさんあろうかとも思いますけれども、だんだんおかげを頂いております内に、ここにみなさんが、こうして百年十名の方達が大払を上げられると、一つの斉唱が、まぁある意味で素晴らしいですから、その斉唱のされる先生のそれに合わせて、もうなんとも言えん調子になって、おかげを頂くでしょう。だから、やはり自分が斉唱させて頂いたら、人が付いてきえるような調子で大払が上げられるように、それこそ鉄の音色を聞くような、金の鈴でも打ち振るうような、一つ声をね、神様にお願いして、それを行じるていかなければならない。

 今、ここで私が言うことを様々な迷いが起こったり、また、改まることが難しいということであってもです、今、合楽で「ここを焦点に」と言われることならば、とにかく大払信行のいうなら、を焦点にして、それこそ夫婦同盟、または親子同盟をしてから、時間を切って、しかも日々欠かすことなく、これを信行にさせてもらおうと言うておることでございますから、「せめて、親先生がああ言われるから、このことだけは実行しよります。」というようなおかげを頂いたら、今日、私が言うたことが段々できてくるようになると。なぜかと言うと、神様と交流する、その時間が段々多くなってくるからです。親先生の言うことを聞くということは、親先生とまず交流する。それを実行しよったら、神様と交流しだした。ありがとうなってきた、御神前が立つごとなくなってきた。もうすでに神様との交流が始まっとるわけです。いうならば、その一時だけは、神様に身も心も捧げておる時なのです。だからおかげになるのです。だから、その有り難い心です、改まることにも、または一心に「親先生がああ言うて頂いたことだから」と、迷わずに一心と定めての信心もまた、できるようになるわけですよね。どうぞ。